2009年に芥川賞候補となった,まいど田中慎弥のやさしさあふれるお話です。
1958年,ひとりの少年が,家族のために野球を諦めました。それが「あの男」と呼ばれる主人公の父親です。叶えられなかった「あの男」の野球への思いは,彼を想う妻,その子供である主人公を経由して,孫へと引き継がれます。その孫が「野球をやめる」と言い出したところから物語が始まり,三世代にわたる野球への思いを,主人公である父親が語るというストーリーになっています。
この話で印象深いのは「あの男」の想いを家族が引き継いでいくことです。一人の少年が家族のために夢を諦めなければならなかったことは世界にとってはちっぽけなことですが,一人の少年の人生にとってはすごく大きなことだったのだと思います。それを家族が共有し引き継いでいくところに感動しました。じつは「あの男」の妻となった女性は野球をものすごく嫌います。なぜなら,野球を諦めきれない「あの男」は野球が原因で失踪してしまうからです。しかし,野球を憎みながらも,「あの男」の想いを理解しているばかりに,「あの男」からの手紙を装って息子へメッセージを送り続けます。
「野球をやれ」と。
しかしその息子(この物語の語り手)はいくらメッセージが届いても野球に興味を持ちません。好きな女の子にうつつを抜かしています。そして父親から譲り受けたバットも川へ捨ててしまいます。結局おやじの想いは伝わりませんでしたが,好きな女の子とは結ばれます。そして子が生まれ,生まれてきたその子は,やっと来た待ち人のように,何も知らないままに野球を始めるのです。
今の子どもが何か習い事を始めるのは,親の指示でやらされることよりも,「自分がやりたいから」やっていることが圧倒的に多いと思います。きっとこの話の子もそうなのではないかと思います。やりたいことをやらせてもらえているというと聞こえはいいですが,ぼくは良いことばかりでもないと思います。なぜなら,自分の気持ちや夢は,マンガに出てくるほど確固たるものではなく,不安定なものだからです。そういうわけで,ぼくは自分という存在を超越した何かを与えてあげることが,親の仕事の一つだと考えています。
なのでこの子は,じいさんばあさんの野球に対する想いを聞かされた孫はいったいどういうふうに感じるのかはとても興味があります。きっとすぐにはわからないけれど,時間をかけて染みこんでいくのではないかと思います。世界にとってはすごくちっぽけな出来事でも,50年経ってまだ,一人の人間に影響を与える意味をもつ,という話が,とても素敵だと感じました。うーん,田中慎弥作品は,優しい。